コーヒーと本があれば基本的に幸せ(出来ればiPhoneも)

より個人的なことを書くために、ボドゲブログから独立させたブログ。カフェと読書記録とアプリとその他つれづれなることを……

古典は頭としっぽだけで面白い(ぜんぶ読まなくてもいいのだ)

そう、うちの本棚にちょいちょい古典な本があるけども、別にぜんぶ読んじゃいない(キリッ)

 
 
 
 
 
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発端(?)は5/23の「ヨーロッパ文学の読み方近代篇」第8回(放送大学)を聴いていて、『ゴリオ爺さん』のラストシーンの部分を紹介していたときのこと。

聴いているとなんだか『グレートギャツビー』のラストシーンに似てる気がしたのだ。蜃気楼のように霞む上流階級の住処を望むところだ。

ひとりあとに残ったラスティニャックは、何歩か歩いて墓地の高みに昇り、セーヌの両岸に沿ってうねうねと横たわっているパリを見おろした。すでに灯がともりはじめていた。彼の目はほとんど食い入るように、ヴァンドーム広場の円柱と廃兵院の円屋根にはさまれたあたり、彼がはいりこもうとしたあの上流社交界の棲息している地域に注がれた。彼は蜜蜂の巣のようにうなりをあげているその世界に、あらかじめその蜜を吸い取ろうとするかのような視線を投げかけて、つぎのような壮大な言葉を吐いた。「さあ今度は、おれとお前の勝負だ!」

バルザックゴリオ爺さん平岡篤頼 訳, 新潮文庫, p515-516)

そうしてぼくは、そこに坐って、神秘の雲につつまれた昔の世界について思いをはせながら、ギャツビーが、デイズィの家の桟橋の突端に輝く緑色の灯をはじめて見つけたときの彼の驚きを思い浮かべた。(中略)

ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へ先へと後退していく狂躁的な未来を信じていた。あのときはぼくらの手をすりぬけて逃げて行った。しかし、それはなんでもない――あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう……そして、いつの日にか――

フィッツジェラルドグレート・ギャツビー野崎孝 訳, 新潮文庫, P253)

19世紀リアリズム小説を代表する『ゴリオ爺さん』はパリの街へ向かっていったけれど、20世紀モダニズム小説を代表する『グレート・ギャツビー』は、ニューヨークの高級住宅街の一角を恐らく憧憬と憐れみの混じった瞳で眺めていた。
全部読んだのかって? いや文庫を所有してますが、導入部とラストだけ…それでも十分面白い!(威張るとこ?) 『ボヴァリー夫人』だってシャルルが帽子を膝から落とすところまでしか知らない(夫人出てない!)。でも面白い。とくに情景描写。

 
 
 
 
 
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